2012年4月2日月曜日

AJPが!

ストレートオン4月号 IAS小川友幸インタビュー「最先端の現場」を読んでいたら・・・
なんとびっくり!!
AJPが倒産してましたーーーーーーっ!
知らなかったのねーーーーーーっ!


トライアル車のブレーキと言えばAJP。
何時かはAJPの4ポットをと、憧れのブランドだったんですが・・・


2012年2月23日木曜日

訂正。(ディエゴ・ボジス選手の来日目的)

誰も覚えていないだろうから「まいっか」とも思ったのですが・・・

2月15日の「訃報 ディエゴ・ボジス」で、ボジスに関する記憶が間違ってたので訂正いたします。
ボジスはボスコ・モト、タレスはレイズの招きで来日したと書きましたが、「1986 INTERNATIONAL SUPER STADIUM TRIAL」のために来日していたのでした。
'86年の9月27日、28日の両日、東京代々木の屋内競技場で開催され、ミショー、ルジャーン、サンダース、タレス、そして初来日のボジスとシュライバーと言う超豪華メンバーで開催されています。
で、その前日に、ミショー、タレス、ボジスが宮ヶ瀬で遊んで?いたんですねぇ。そのビデオを貰ったのでした。


TRIAL JOURNAL 1986年12月号より

ノーヘルで乗ってるのがタレスです。髪がフサフサです。
赤いヘルメットの選手が19歳のボジスです。


2012年2月15日水曜日

訃報 ディエゴ・ボジス

'80年代半ばから'90年代にかけて活躍した、ディエゴ・ボジス選手が亡くなられました。
2月14日朝、仕事に向かう途中の突然の心臓発作だったそうです。
享年44歳。


TRIAL JOURNAL 1968年 6月号より

ボジス選手と言えば、アプリリアのメインライダーのイメージが強いかも知れませんが、私は真っ赤なモンテッサを思い出します。
世界選手権北アイルランド大会だったか?泥水の小川を走るセクションでした。他のバイクは問題なく通過して行くのに、何故か真っ赤なモンテッサだけがプスプスプスとエンジンストップ。
ナレーションによるとポイントが水に浸かったらしいとの事。
「えっ!今時ポイント点火って!あーた。気の毒に・・・」と驚き呆れて印象に残っているのです。
で、アプリリアと契約した時だろうと思います。(記憶が曖昧です)
アプリリアの輸入代理店ボスコモトの招き?で日本に来たのですが、同じく当時のベータ輸入代理店レイズの招き?で日本に来ていたタレスと、宮ヶ瀬?で練習&遊びで乗ってるビデオ(非売品か発売前のビデオでした)を貰いました。
この時もアプリリアでは無く真っ赤なモンテッサだったような・・・
当時タレスが意識していた選手は、スティーブ・サンダースでもテリー・ミショーでもなく、ディエゴ・ボジスだったそうで、当時の最先端テクニックを駆使した二人のライディングは、「えっ!」「あっ!」「凄っ!」「なんでっ?」の連続で、食い入るように見たものです。
最高ランキングはタレスに次ぐ2位でしたが、常にクリーン狙いのライディングは見るものをワクワクさせ、スピーディにリズミカルにセクションを駆け抜ける走破力は、世界一だったと思います。
黒山一郎さんが、TRIAL JOURNAL 1986年11月号でこんな事を書かれています。
ボジスは、あらくた坊主
タレスかボジスかと言われているが、現時点では完全にタレスに水をあけられていると言わざるをえないディエゴ・ボジスである。
素質と才能、テクニックやハングリー精神はタレスと遜色はない。むしろ、BTRの経験が全然ないのにもかかわらず、あれだけの“踊るライディング”が出来るのは、タレスよりも素質と才能があるのかもしれない。
ボジスがタレスよりも大会において成績が劣る理由は、はっきりしている。それは、タレスは大会で勝ちにいっているのに比べ、ボジスはクリーンのみを狙っている。タレスがセクションで自ら足を出して手堅い1点でまとめる走りを何度も見たが、ボジスは一度も見た事がない。逆に、皆が1回足着きの1点でまとめるセクションを強引にクリーン狙いのライディングをやり、あげくに5点になるシーンを何度も見た。(中略)
こんな不届き奔放、何をしでかすか分からないライディングをして、現在世界ランキング5位。
ボジス君、あらくた坊主の走りを卒業したら君は世界チャンピオンです。

早すぎた死を、謹んでお悔やみ申し上げます。

<2月23日:追記>
記憶違いがありましたので、訂正しました。