2013年6月30日日曜日

SOAR ポケットテスター

30年ほど使ってるSOARのポケットテスターなんですが、昨年頃から?スライドスイッチ(ファンクションスイッチ)が接触不良になってました。
電圧や抵抗の表示が一発で出なくなっていたのです。
で、修理しようとプラスチックケースを開けてみたのですが、金属の蓋が小さなヘキサゴンソケットスクリューで止めてあり、レンチが無くてそれ以上は分解出来ませんでした。
なら、小さなヘキサゴンソケットスクリュー用の棒レンチを探せよ!って話ですが、そこはそれ、我慢強い私は接触不良のまま使い続けていたのです。

そんな事をすっかり忘れた昨日、コメンテーターのぼ輔さんに、ダイタイソーの商品で3.0㎜~0.7㎜の精密六角棒レンチのセットが有るのだ!と教えて頂き、早速ダイタイソーに行ってきました。


有りました!
これが105円!助かるな~


1㎜だろうと思ってたんですが、1.3㎜でした。
セットで良かった!単品だったら、必至で1㎜を捜していたことでしょう。

んで、開けたら・・・


あちゃ~
スライドスイッチ(ファンクションスイッチ)の位置決めをするバネ部分が、片側折れてました。
これは接着しても駄目、修理不能なので諦めます。接点のみアルコールで拭いて組み立てます。

修理完了!
と言いたい所ですが、導通を音で知らせるブザーが鳴りません。アルコールで拭いただけでは駄目だったようです。
再び分解し、カッターナイフの刃で、バネ両端の汚れ?酸化皮膜?を削り落として再組み立て・・・


今度こそは!とテスト棒を接触させると、ピーッと音が・・・
おお~ 直った!

スイッチの位置決めバネ部分が折れてるのでタッチは悪いですが、修理完了です。

ぼ輔さん、情報有難うございました。ぼ輔さんの情報が無ければ接触不良のまま使い続けた事でしょう。
オレってそう言うタイプです。


2013年6月29日土曜日

アクセル軽く・・・

スダレを掛けた窓から気持ちの良い風が入り、こりゃあ木漏れ日の道はさぞかし気持ちが良かろうと出掛けてみたのですが・・・


なんて日だ!


暑い!


遠くに見えるは大阪のビル群か・・・?


2013年6月17日月曜日

旧山中越(志賀越)

以前から気になってる道の事です。


国土地理院 ウオッちず

オレンジの道が旧山中越(志賀越)です。
このオレンジの部分については何の疑問もないのですが、オレンジの道から分かれる黄色い道に長年疑問を感じてました。


オレンジと黄色の分岐点に立てられた案内板です。
ここから馬頭観音に向かって走ると・・・


道なりに真っ直ぐ行くと切り立った崖になり、道が途切れています。
で、バイクが向いてる方向に無理矢理階段がつけてあり、その階段を下ると・・・


馬頭観音です。
この先に道は有りません。
階段で下った僅かなスペースにぽつんと祭られているのです。
とても不自然で、これはおかしい!道が有った筈だ!と、ずーっと思ってたんです。
しかし、そうそう古い地図で確認出来る筈も無く諦めてたんですが、世の中は探せば出てくる?インターネット時代。
これです!


国際日本文化研究センター 所蔵地図データベース1931年(昭和6年)京都東北部より

思ってた通り道は繋がっていました。(青い部分が失われた道です)
これを見ると、こちらの道も旧山中越のように見え、馬頭観音が祭られている事も納得できます。

では何時頃道がなくなったのか?

比叡山ドライブウエイの開通が1958年(昭和33年)4月18日だそうですので、現在の山中越(京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線)が出来たのもその頃になる筈。
その新しい山中越に面した土地が削り取られているので、1958年以降に土砂の採取が行なわれたんじゃないかと想像します。
それも旧山中越と思われる道まで削っているところを見ると、かなり悪質で違法採取だったのかも知れません。
以前は白川砂・白川石の違法採取が多かったですから、同じような事だったのかも・・・


2013年6月14日金曜日

此処をこうこうこう

ですから~

初心者ラインわぁ・・・


此処を・・・


こうこうこう。


此処を・・・


こうこうこう。


此処を・・・


こうこうこうです。

分かりましたねっ!


2013年6月12日水曜日

紫香楽宮

天平十二年(740年)九月 九州で藤原広嗣が挙兵。その日のうちに討伐軍が編成され大野東人(おおの の あずまびと)が指揮官に任命される。
同年十月二十六日、広嗣の乱の最中、大将軍大野東人に以下の勅を賜ったのち、聖武天皇は突然の東国巡幸へ。

 「朕、意(おも)う所有るに縁(よ)りて、今月の末、暫(しばら)く関東に往(ゆ)かん。その時に非(あら)ずと雖(いえど)も、事已(や)むこと能(あた)はず。将軍これ知るとも、驚き怪しむべからず。」

伊勢(十月) → 伊賀(十一月) → 関宮(十一月) → 美濃(十一月) → 不破(十二月) → 近江国(十二月) →

十二月十五日 聖武天皇は山背国相楽(さがらか)郡の恭仁(くに)に至り、泉川(現木津川)の河畔で新京の建設に着手される。


<a href="http://blue.ap.teacup.com/buratto/92.html"><span style="color:blue">2006/08/14 撮影</span></a>
1957年7月1日、山城国分寺跡として国の史跡指定を受けたが、2007年2月6日付けで恭仁宮跡(山城国分寺跡)に変更された。


天平十四年(742年)二月 近江国甲賀郡へ通じる東北道の造成を開始。
紫香楽の地での大仏造立をこの頃までに決定されたようです。
同年八月、最初の紫香楽行幸。同年十二月、再び紫香楽へ。

天平十五年(743年)十月 紫香楽の地において大仏造立の詔を発布。
同年末に恭仁京の大極殿が完成するも、新京の建設は中止される。

天平十六年(744年)十一月十三日 紫香楽の甲賀寺に大仏像の体骨柱(たいこつちゅう)が建てられ、天皇自ら縄を引かれる。

天平十七年(745年)の年が明けると、紫香楽宮への遷都が宣言される。
が、この年の春頃から?異変が続発する。一昨年以来の大旱魃が起こり秋の稔りは絶望的になる。極度の乾燥と強い日射しから、紫香楽宮周辺の山では火災が頻発し、(平城への還都を謀る一部官人による放火との説も・・・)さらに追い打ちをかけるように4月末には美濃を中心に大地震が起こる。山火事は消えず、余震は紫香楽を揺るがし続けた。

ついに五月五日、聖武天皇は紫香楽を捨てて恭仁京へ向かい、さらに十一日には奈良平城京に戻られる。
民衆も競って平城を目指し、その行列は昼夜途切れることなく続いたとの事。


1926年(大正15年)に史跡指定されたこの場所が、紫香楽宮跡では無かった!(現在は甲賀寺跡と推定)と言う事は知っていたのですが、本当の宮跡が何処かは知らなかったんです。
で、先月の全力ツーリング!?を振り返っていたら・・・


えっ!信楽町宮町!

地名に宮の場所が残ってるやん!当時の考古学者はなにしてたん!
う~む・・・これは行かずばなるまい。


う~む・・・何も無い。
田んぼの中にある集会所へ行ってみる。
う~む・・・何も無い。
此処じゃないのかぁ?と、少し離れたところから見回してみるが
う~む・・・何も無い。
再び集会所へ行き中庭を見回す。
と・・・


有った!
集会所の倉庫?の壁に説明版が取り付けてありました。


う~む・・・天皇の宮跡なのに宮跡を示すものはこれだけか・・・
それも、集会所の中庭で分かり難いし・・・
聞けば、近くの農家の方が自費で看板を作ったり補修をしているらしい。
どうした信楽町!頑張れ信楽町!オレは信楽町が好きだ!

離宮として建設が始まったようですが、思いのほか規模が大きいようですので、聖武天皇は紫香楽京にしたかったのかも知れませんね~


たられば・・・

美濃を中心とした大地震が起こら無かったら!
平城への還都を謀る一部官人による放火?が無ければ!
奈良の東大寺は出来ず、ここ甲賀寺に大仏様が居られた事でしょーーーーーっ!